母親は長崎の島原で生まれて、育った。
「島原から原爆って見えたん?」
まだ地理に明るくなかった僕は素朴にそう質問した。
「見えたよ~大きなきのこ雲がねぇ、、ぽっかり浮かんでるようにね」
昭和9年生まれの母、原爆が長崎の街を焼きつくしたその年にはまだ小学校の高学年だった。
まだまだ子供だった母にはその雲がいったいどう見えたのだろうか。
そんな母は末っ子の上、早くに両親をなくし、それでも沢山いた兄弟たちに囲まれてたくましく育ったようだ。とりわけ長兄の大治おじさんには歳が離れていたせいか特に可愛がられていたらしく、兄弟を語るときには必ず最初に大冶おじさんの名前が出てきたものだ。
兄弟と言っても7人兄弟だった母と大冶おじさんは10歳以上も年が離れていたはずなので、恐らく親のように心を寄せていたのかもしれない。
そんな大治おじさんが亡くなった年のお盆には家族で島原を訪れた。
島原の家は目の前に港があり、その港の先には有明海が大きく口を開けている。
夜、そこに向かって何艘もの精霊流しの船が多くの人によって担ぎだされていった。
僕たち親子は手持ち無沙汰にそれを黙って見ている。
そして小さな灯籠に火が灯され、海の中の彩りのようにあちらこちらから集まっては水の中を漂って流れていく。
それを見つめる人たちの思いを載せて、それらは海の向こうへと離れていく。
小さな魂が、海に帰っていくのだ、とふとそう思った。