コスモスと夕暮れ。
日が傾きだしてきたので、あぁ、そうだと思ってこんな風景を切り取ってみました。これこそ「切り取りの魔術」。
ここが都会の真ん中だとは見えないでしょ~?(笑)
広角レンズの魔法でもありんす、、、
NIKON D300S f/8 1/250秒 ISO:200
写真とか、エッセイとか、きのことか、
コスモスと夕暮れ。
日が傾きだしてきたので、あぁ、そうだと思ってこんな風景を切り取ってみました。これこそ「切り取りの魔術」。
ここが都会の真ん中だとは見えないでしょ~?(笑)
広角レンズの魔法でもありんす、、、
NIKON D300S f/8 1/250秒 ISO:200
なんとTAMRONの90mmマクロでの撮影。
何故かと言うとちょうど良いレンズを持っていなかったっていう顛末。
この日は蝶を撮るつもりであり、まさかコスモスを撮ろうとは思ってなかったのさ、、、
でも大きい花の方のボケ方がとってもタム9ですよね~
NIKON D300S f/4 1/8000 ISO:1000 TAMRON 90mm
久しぶりの写真撮影 in 長居公園
でも第一目的のアサギマダラは現れず・・・(涙)
仕方なくコスモス写真を何枚か撮ってみた。
これは蝶を撮るための望遠での撮影。
主役はあくまでもコスモスなのですが、ここにこの女性がいないとこの写真は成り立ちませんのですな。
写真は大きくしてみてくださいな、色が引き立ちます!
以前知り合いに
「ホームスティなんか、何で受け入れるん?何か得なことでもあるん?」
と聞かれたことがある。
その時は、
「子ども達の良い経験にもなるしなぁ、、、」
とだけ答えたっけ。。
少なくとも「経済的」に見れば何一つ得なことなどない。「時間」だってそのために多くの時間を費やす必要があるし、文化も違う人を受け入れると言うことは気も半端無く使わねばならない。
しかし子どもはもちろんの事、親である我々にもお金に替えることの出来ない沢山の経験がそこにはあるのです、かならず。例えば、ホームスティに来た人を媒介にしてその国の事を知る事もできるし、もしくはその人が来るから前もって学びたいと考えるであろう。また大げさに言えばその人自身が「国」でもあり、その人と話をするって言うことはまさに「その国を旅行をしている」ということに等しいのである。
もう一人神奈川で同じような受け入れをしているタミちゃんからこんな話を聞いたことがある。
「若い頃、小さな子供を抱えてアメリカに転勤することになり、その時にろくに英語もしゃべれなかった私を助けてくれた人がいて、その人達への恩返しのつもりで受け入れをしているの」
これもまた素敵な話だなぁ、と思う。
まぁ僕自身は海外への滞在経験というのがないので、海外で人に助けてもらったことは皆無に等しい。無いけどタミちゃんの気持ちはよく分かるし、もし同じような立場だったらきっと同じように考えて行動していたに違いない。恩を受けた人にじゃなく、他の人に恩を与える事によって、結果的に恩を受けた人への「恩返し」になるという発想はたぶんホスピタリティ精神の根幹をなすところだと思うのです。
・・・と今まで書いてきたのは実は後付けの理由である。
いやウソを書いてきたわけではない。
もちろん本当の事であるが、自分の気持ちを整理し、他の人に分かりやすいように説明するための理屈をあたかもそれが自分の気持ちのすべてである、かのように書いてみたのである。
さてじゃあホントにホントの理由はというと、、、
「楽しいから」
ということなのだろう、、と思うのだ。
ついこの間まで全く知らない国に住んでいて、何をやっているか、どういう暮らしをしているのか、そんな情報も繋がりも無い国からやってきた人と、たまたま何かの縁でうちの家に泊まりにくる事になり、一緒に食事をし、話をして、ひとつ屋根の下で寝て、旅をする、、、こんな出会いが他にあるだろうか?
これって考えただけでワクワクしないか、、、少なくとも僕はするのだ。
こんなワクワク感ってきっと他には無いと思うし、これってやっぱり奇跡なんだと思う。
誰の意図にも依らず、たまたま何かのイタズラで偶然に知り合うことになった奇跡。
この奇跡的な繋がりがずっと続くのか、それとも途絶えていくのか、はたまた途絶えた後にまた何かのきっかけで縁が復活するのか、、、それは誰にも分からない。分からないが僕はまた訪れる奇跡を信じようと思っている、ワクワクしながら。
まずは今回のホームスティに協力してくれた家族に感謝したい。
この様なイベントは家族の協力無しには成立し得ないからである。
その中でもコミュニケーション力には今回特に感心した。
英語(英会話)に関しては訓練をそれほど積んでいないためイマイチなのだが、物事を伝えたい、伝えようとする能力と意思に関してはかなり優れている、というのを再認識した。
この写真は清水寺からの帰り道、八坂神社に寄った時のものである。
ここでは何を説明しているかわからないのだが、一生懸命説明している姿がわかる。そしてセルジオも「何を説明しているのか」ということを理解しようとしている姿勢が見える。
これぞコミュニケーション能力のなせる技なのである。
つまり相手を聞く気にさせるほどの吸引力というか、なんというか、、、
そんなものが間違いなく備わっているのか、それとも海外旅行で培われて来たのか、、、
少なくとも早々に説明を諦めてしまう僕とは大違いである。
時々面白いものを買う。
いやでも「京都のお土産」と言ったら「八つ橋」は定番だ。なので「面白い」というのは語弊があるかもしれないが、それをモザンビークから来た彼が買う、というのはなんとも意外ではある。
でもこの表情を見たら何とも嬉しそうである。
確かこの店は清水寺に向かう途中で試食するために入ったお店である。その試食でたぶん「これを買おう」と思ったのであろう、清水寺からの帰路、前に入ったこのお店にその試食してこれだと決めたものを買い求めたのであった。
なんと律儀な性格なのだろうか、と思った。
この滝でこれをするために何分並んだろうか?この日は観光客も多かったので、ずらっと並んだ行列に僕は見ただけでノーサンキュ。でもセルジオは「当然やるでしょ」という嫁さんの「並ぶよ」の行動に一も二もなく同行する。たぶん日本人も「これって何の意味があるのん?」と思ってはいるんだろうけど、東大寺の柱の穴くぐりと一緒で「やることに意味がある」のかも知れないね、、(笑)
三人仲良くパチリ、と。
清水寺に向かう道には多くの露天がでていた。
多くは土産物屋なのだが、何故かセルジオは帽子を売っている露天に立ち寄りその中のソフトハット(ハンフリー・ボガートが被りそうな w)を手にとって
「僕は帽子が好きなんだ」
と僕にささやいた。
でもその帽子は店の親父が「それわなぁ、高いぞ~」と言うように1万5千円もした。
とても気軽に買う、というお値段ではない。
もちろん彼もそれを買うのははばかれたようで、そのままその店を後にした。
たぶん、この帽子も彼にとっては「好きのものを記念に」と思っていたのかな?と想像している。そんなことなら僕の帽子のどれかをプレゼントすれば良かったかな?
それともそんな使い古しなんか要らないかな?
「記念」と言う意味では例え身につけなくても良かったような気もする。
清水寺に向かう道々、空に向かってうんとそびえる五重塔が僕達の前に立ちはだかる。清水寺ではない、でもこんなところに五重塔などあったのか、、としばし考えるがやはり出てこない。
そら出てこないわな、、あんまり来たこと無いもんな、、、。
そんなバカなことをゴチりながらカメラを向ける。やはり五重塔は美しいなぁと思う。このシンメトリーな建物は未だかつて地震などで倒壊した、と言う記録が無いらしい。この真中に突き出ている心柱が倒壊しないことのキーポイントらしいが、この仕組を考えた人は本当に偉いなぁ、、だって今でもその技術が応用されているんでしょ?(って誰に聞いてるの www)
清水寺の本堂にて祈るセルジオ。
事前に聞いていたがモザンビークではキリスト教が40%を占め、イスラム教はすこし少なく18%となっており、今回来日するモザンビーク人の中ではイスラム教の人が一人だけいたらしい。
ただイスラム教だったら食べるものの制約があるため、ホームスティ先が決まった時点でホストファミリーの方には通知があるはずなので、間違いなくセルジオはキリスト教徒なのだろう。
そんな言わば異教徒のセルジオが仏教の形式で祈りを捧げている。
たぶんその姿が珍しかったのだろう、周りの人たちも少し奇異な表情で眺めている。
でも当の本人はうちの嫁さんがやっていたことを注視し、そのやり方を覚えて同じようなしぐさでそれを行っている。実は後ろに立っている大河などもこの様な事をするのは初めてに違いないし、大河の後ろに並んでいた人たちも多かれ少なかれ大差などないはずだ。
ただひとつ違うのは大方の日本人の様に「祈る」というのをある節目にしか行わないのであるが、彼はたぶんそれを日常的におこなっているのかもしれない、と言うこと。
その「祈り」の敬虔さ加減におそらく置いては大河などの比ではないだろう、、、。
そうやって見れば「型」こそ違えどその真摯さにおいてとっても様になっているではないか。