「 2016年06月 」一覧

国民投票

Nigel Farage, the leader of the United Kingdom Independence Party (UKIP), struggles with a television ear piece as he gives interviews at a Leave.eu party after polling stations closed in the Referendum on the European Union in London, Britain, June 23, 2016.  REUTERS/Toby Melville

Nigel Farage, the leader of the United Kingdom Independence Party (UKIP), struggles with a television ear piece as he gives interviews at a Leave.eu party after polling stations closed in the Referendum on the European Union in London, Britain, June 23, 2016. REUTERS/Toby Melville

http://www.huffingtonpost.jp/2016/06/27/eu-referendum_n_10707968.html

「あぁ、国民投票でこんなん決めれるんや、えぇなぁ」と思っていたけど、この記事を見て愕然とした。やっぱ国民投票ってあかんやん、、、って。

僕ら一般市民って美味しいものが目の前にあったら食べてしまうもんなぁ、、

「それ、食べてえぇねんで」

「遠慮することなんかないわ」

「お金のことなんか気にすんなよ」

はい、パクリ。

だもんなぁ、、
それ食べたら余計なお肉が付くとかさぁ、コレステロール値が増えるとかさぁ、血がドロドロになるとかさぁ、、、少しは頭をよぎるけどやっぱり食べてしまうのよね~
ならやっぱりね、

「私は10年後を考えて決して食べません!(きっぱり)」

とかね、言える人。

そんな人を選んで将来を託すほうがえぇよなぁ、、絶対に。

ほんでから、羽生名人のような何十手、何百手先を読んで物事を決めてくれる人とかね。

イギリスはこれからどうするんだろう?


藤田川はどこから“来た”のか?

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僕の故郷である枚方市の香里ヶ丘には不思議な川が流れている。
その決して大きくもなく、綺麗でもない川の名前は「藤田川」という。
その名前「藤田川」は本来の川としての名前よりもむしろバスの停留所(いろんなルートのバスがここを通る)もしくはバスの車庫としての名前の方が馴染みがあるのではないか。

なので「藤田川」というとバス停を思い浮かぶのは地域の人なら普通のことである。

藤田川本流を見てみる

ではこの藤田川の何が不思議なのだろうか?

まずはこの地図の1番を見ていただきたい。これは藤田川の本流だと思われる。
このE19の西側辺りから「始まる」藤田川は少しだけうねりながら北に向かって流れていく。その後ゆるやかに右に折れながら最終的に天の川に合流している。

この川で遊んでいる子供はたぶん皆無。魚もあまりいないだろうし、サワガニなどいる由もない。
またあまり深くもないので浮き輪を片手にバシャバシャ泳ぐなんてあり得ない。つまりは「遊びで使う川」では無いのだ。

そんなあまり愛着の湧かない藤田川本流だが、E19号棟の横から突然現出している。まさに唐突に。

ではこの「始まり」のその前には何があるのか?

香里ヶ丘CONOBAを流れる川

次に2番を見てみましょう。

けやき通りに沿うように小さな小川が流れています。

現在では香里ヶ丘CONOBAというショッピングセンターの中をまるで人工的に水を流しているかの様になっておりますが、この「流れ」は人工のものではなく自然の水(川)を利用して、それをショッピングセンター引き入れている様な感じにしているのです。
そしてその小さな川は最終的に藤田川に合流している。

しかしその川の「始まり」もどこなのだろうか?
確かに地図で見るとピーコックの東側から「発生」しているように見えるが、もちろんここから水が湧き出ているわけではないはずだ。

開成小学校前を流れる川

そして最後に3番を見てください。
僕が住んでいたA27号棟の前に流れていた川で、藤田川と引けをとらない川幅である。
川の向こうには桜の木がずらっと植えられており春になると僕の部屋から花見が楽しめたものである。

この川は枚方保育所の北側から「始まり」、開成小学校の横を通り、香里橋のところで直角に曲がってそのまま真っすぐ流れて藤田川と合流する。

この3の川は桑ヶ谷のところで合流する。
それぞれの川に共通することは川に水が流れている(当たり前か)、そして川の「始まり」(源流)はどこか分からない、ということである。

さて川の始まりはどこなのだろうか??

これらの川の始まりは?

僕のたてた仮説では、それぞれの川の「始まり」は単にそこから見えているだけで、その前には隠されている状態(つまりは暗渠)になっているのではないだろうか、、、ということ。

※暗渠とは

主に給排水を目的として造られる水路のうち、小規模な溝状のものの総称である。そのうち、公共用水域にあるものは「公共溝渠」(こうきょうこうきょ)と呼ばれる。
その状態等により、開渠(かいきょ)・明渠(めいきょ)、暗渠(あんきょ)、側溝(そっこう)などと呼ばれ、区別される。また開渠と暗渠を総称して管渠(かんきょ)と呼ばれる場合もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%9D%E6%B8%A0

川というのは小さな「湧き水」からはじまり、その湧き水が集まって小川となり、小川が集まって川となっていく。この藤田川を形成する3つの川もそうやって生まれてきているのだと思うんだけど、それがどこから始まっているのが見えてこないし、そこは何からの理由で隠されているのではないか、とも思えてくる。

もちろん下水や生活排水が流れて来ているわけでもないだろうし、工場の排水の様にも見えないとなるとどこか山の一部とか、地下水脈とかそんなところから水が「漏れてきている」と考えるのが自然な考えだと思われる。

そんな「川の始まり」の箇所は少なくとも見えていないのだから、そこには暗渠らしいものがあってしかるべきなんだと思われる。

じゃあ、それぞれの源流はどこなのか?

どうして「暗渠」なるものが作られたのか?

できれば謎解きに現地を訪れてみよう~。


桑の実ケーキ

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千葉のお嬢様から頂いた桑の実ケーキ(別名王蟲ケーキ w)。
以前からこれをFBで見てよだれをタレていたのですが、念願かなって頂くことができました。

これ、売れるよ!!

一生懸命桑の実集めなあかんけどね ww
いやぁ、めちゃうまうまでした~♪

さて、写真はRX100M3。

露出を明るめにして蛍光灯だけで撮影。
えぇ感じで撮れますな~。


「大阪の地形を語る」(大阪高低差学会x東京スリバチ学会)

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「大阪の地形を語る」(大阪高低差学会x東京スリバチ学会)の講演を聞いた後、参加メンバー+αで上品な食事を頂きました。グランフロント大阪にある「ザ シティ ベーカリー ブラッスリー ルービン」(長いので覚えられん w)というパンが食べ放題のお店だよん。

メインはこのチキンカツ!なんつうかこのボリューミーなタルタルソースとチキンカツのハーモニーがたまらん一品でありんした。

パンもここでは影だけしか写っておりませんが、やわらかいパン(名前は聞いておりまへん)がたまらなく美味しく、3回ぐらいおかわりしましたなぁ~

この日は一泊キャンプから帰ってきて、講演を聞いて、チキンカツ食って、千葉の客人をお迎えに行って、、と実に忙しい一日でがんした。


一泊キャンプ終了!!

アジサイ(槇尾山)

ミッションその1「保育園の一泊キャンプ」が終わった。今年の一泊キャンプはなんと僕が参加して以来(もう13年め)初めての雨続きであった。。。そら、、梅雨やもんなぁ、、真っ盛りやもんなぁ、、。魚つかみも川には入らず、オリエンテーリングも部屋の中でやり、キャンプファイヤーもなんと大広間でやったという前代未聞の行事の連続でありました。

しかしであります、、大人たちの失望感に比べて、子どもたちはそれでも、まったく気にすること無くとっても喜んでくれたのが救いのそんなキャンプとなりました。

写真は2日めの朝から登った山頂付近でのアジサイでがんす。

主役はアジサイではなくバックの玉ボケでありんす。


七夕伝説を巡る旅(その3)

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さてこの交通標識をご存知だろうか・・・?

知らん人はまったく知らないと思いますが、僕と同じ高校に通っていて、しかも枚方方面からの自転車通学をしていた人なら必ず知っている標識である(かなり限定されますな w)。

そう、この標識は枚方の茄子作とか高田方面から交野市に入った瞬間にほぼほぼ目にする標識でありまして、この標識のところで右折して交野高校へと僕は毎朝通っていたのでした。

で、この標識に書いてある文字はというと?

「逢合橋西」

とあります。
さて逢合橋とはどんな橋なのでしょうか?

前回の「七夕伝説を巡る旅(その2)」はこちらからどうぞ。
七夕伝説を巡る旅(その2)

逢合橋とは

逢合橋というのは、結ばれたにも関わらず引き離されて別れ別れに住まざるを得なくなった牽牛(彦星)と織姫が、唯一七夕の日だけに天野川にかかるこの逢合橋で逢瀬を楽しんだ、とされる橋なのです。

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この橋のたもとにはこの様な歌もありました。

彦星(ひこほし)と
織姫(たなばたつめ)と
今宵逢ふ
天の川門(と)に
波立つなゆめ

万葉集(作者未詳)

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彦星と 織姫とが 今夜逢う 天の川の渡り瀬に 波よ決して立つな

古代平安の貴族たちが今のこの天の川を目にしながらこんな歌を詠んでいたのだと思うと、同じこの地に立って天の川を眺めいたら何だか古代に紛れ込んだ気分になるのが不思議ですね。

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かささぎ橋

天野川を遡って行って限りなく枚方市駅の方に行ったところに「かささぎ橋」という橋があります。

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カササギというのは鳥の名前で、これも七夕伝説のお話の中でこんな風に現れてきます。

牽牛は七月七日が来ると、銀河を渡って織女に逢いに来ました。その日が雨のため、水が増して銀河を渡れないと、鵲(かささぎ)が群れ集まって翼を広げ、橋となって渡してくれました。
http://www.kk-kikuchi.com/tanabata-roman/tanabata-roman.htm

逢合橋とかささぎ橋、かたや交野市内にあり、もう一つは枚方市内にあり、両方共に天野川にかかる橋なのです。

う~~む、何とも複雑な心境だ~(笑)
これはつまりは枚方市と交野市の「七夕合戦」なのですよね、きっと (@_@)

まぁ僕はどちらも大好きな市なので、、、じゃあこうしましょう。

七夕伝説で彦星と織姫が逢う場所は、晴れの日なら逢合橋、雨の日ならかささぎ橋で、、ってことで!

桑ヶ谷

さて締めくくりと言ってはおかしいのですが、、、

この枚方、交野という一帯は古墳時代、飛鳥・奈良時代、平安時代と時代時代の重要なポジションを占めていました。

それは今でこそ海からは遠く、決して交通が便利だとは言えないこの地域なのだが、その当時、枚方丘陵と呼ばれるこの地域は河内湖という湖(海)の畔なのでした。
つまり大阪市内の上町台地を除いた北側は守口をはじめ、門真、寝屋川までもが海の底かもしくは湿地帯であったのです。

「参考:大阪の古代地図」知ってるつもり?! 縄文時代の大阪

すると枚方の香里ヶ丘という地域はどんな地域だったのだろうか?

枚方丘陵っていうのは、まさしくその丘陵は「香里ケ丘」を指しているのだと僕は思っている。
香里園、光善寺、枚方公園、それぞれの駅から「丘」に向かう坂道を上がっていくと、すべての道は香里ヶ丘に通じる。
唯一枚方市駅だけは「坂道」ではなく、平坦な道となっている。

その理由はおそらく谷道に道路を作ったからだと思われる。
それが証拠に、かなり小さいけど藤田川という川が道に沿って流れ、「桑ヶ谷」という場所が存在するのだ。

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「桑ヶ谷」は今でこそ「谷」らしくないけど、よく見ると片側に「桑ヶ谷公園」という山があり、もう片側には桜公園へと続く坂道がある。これは立派な「谷」なのだ。

そして「桑」の方にも注目するとこの桑ヶ谷から南へ200mぐらい行ったところに桑の木が3本あった、ということが確認されている(うち一本は伐採された)。

そう、恐らくこの辺りは交野の倉治を本拠地とした機織り業の人たちに、その原料となる絹糸を供給するための一大産地だったのではなかったのだろうか、、、、

七夕伝説を巡る旅は結局ここに戻ってきた感じがする。

今も残る大桑の木
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七夕伝説を巡る旅(その2)

七夕伝説を巡る旅その2は織姫が住んでいた、という機物神社からである。
また、機物神社に限らず、この機物神社がある倉治やその周辺の「交野」という土地はどのような土地であったのか?という所も検証していきたい。

前回の「七夕伝説を巡る旅(その1)」はこちらからどうぞ。
七夕伝説を巡る旅(その1)

機物神社とは?

さてこの機物神社、7月の6、7日は七夕祭りで凄く賑わっているらしい。
というのもこの神社が七夕伝説の一方の主役「織姫」がここに居を構えていた、といわれているからである。

まずはこの写真を見ていただきたい。
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これは織姫の「絵」らしい。
ここに二つの名前が書いてあが、これは機物神社の祭神の名前である。

「天棚機比売大神」(あまの・たなばた)
これは織姫神のことで、天照大神の衣服を織って、天の岩戸から外の世界へ誘い出したという言い伝えがあります。またここより磐船街道をずっと奈良に抜ける途中で「磐船神社」という神社がありここには「天岩戸」(あまのいわど)という巨石があります。そう、天照大神がお隠れになったその岩が<今も>磐船神社に現存するのです。

「栲機千々比売命」(たくはた・ちぢみ)
美しい縮んだ織物の神様のことらしいです。

さてこの二人を祭神とした機物神社とは、、、

もともと機織を業とした帰化漢民族の祖先をまつった宮ですが、平安時代になるとこのあたりは狩りを楽しんだり、詩歌(しいか)を詠じたりする宮人たちの行楽の地となり、陰陽道(おんようどう)なるものが入ってきて、祭神をたなばた神としてしまいました。
http://murata35.chicappa.jp/meisho/hatamono/

気になる表現がありますね、、、

「もともと機織を業とした帰化漢民族の祖先をまつった宮ですが」と前置きしておいて「祭神をたなばた神としてしまいました」とあります。
つまりは

祭神が「帰化漢民族の祖先」から「織姫様」に変わってしまった。

ってことなのですね!
なんとまぁ!!

交野と言う土地

ではこの交野及び倉治周辺の大雑把な歴史を整理してみましょう。

1.古墳時代(物部氏統治時代)

肩野(かたの)物部氏がこの交野一帯と枚方の開拓・経営に携わっており、物部の一族やそれに従う部族などが多くこの辺りを治めていたと考えられます。また、交野市森ではこの時代の古墳が発見されており、物部氏の一族のお墓ではないか、といわれております。
しかし物部氏が蘇我氏との崇仏・排仏論争に敗れ(587年)、物部の本宗家が滅びると共に、肩野(かたの)物部氏もその影響でこの辺りの勢力を一掃されることになったようです。

『参考』
507年に第26代継体天皇が即位した時に今の樟葉に「樟葉宮」という都を置いたとされています。
つまりこの枚方~交野という土地は交通の要所であり、都を置くに適した土地なのですね。

2.飛鳥時代~奈良時代(渡来民時代)

飛鳥時代になると百済との交流が盛んになり、当然人や文化の交流も盛んに行われるようになります。そして物部氏の出て行ったこの土地は朝鮮半島からの渡来民に分け与えられることになります。また彼らの多くが機織などの技術を持ってやってきたため、この辺り(特に倉治周辺)は機織の一大産地となったのではないかと思われます。

この交野で織られた着物は磐船街道を通ってその頃都であった奈良に運ばれて行ったことでしょう。

3.平安時代(狩猟場時代)

平安時代になると交野という土地は平安時代は貴族などが「遊猟」のために訪れる土地だったらしい。
確か枚方の禁野なども同じように「天皇の狩場」だったので、この枚方~交野一帯は今で言う天皇や貴族たちの別荘地みたいなものであった、と想像できます。

とすると機織業を正業とする渡来民たちはいったいどこに行ったのでしょう?
もうここでは機織はされなくなったのでしょうか?

都は京都に移されています。
京都からこの辺りまではさほど遠くはないにしろ、都の近くの土地を求めてまた移住していった(または移住させられた)ということがあってもおかしくありませんね。

七夕伝説

七夕伝説はいつから始まったのか?
そんな事を考えてみた。

まずはこの石碑を見てください。
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この石碑には紀貫之の拾遺和歌集に収められている歌が刻んである。

ひととせに
ひとよとおもへと
たなはたの
あひ見む秋の
限なきかな

これは七夕伝説をことを詠んだ歌であります。

拾遺和歌集とは1006年(平安中期)に編纂された和歌集と言われています。

つまりこの時期には七夕伝説は存在した、と言うことになりますね。

僕の推測では・・・

七夕伝説とは、織姫、牽牛、そして天の川の物語。
少なくともこの内2つの要素(織姫、天の川)はこの交野の地に存在する。
ではこの土地は七夕伝説の土地だった、ってことにしてしまおう。

と貴族たちは考えた。

大勢の貴族(宮廷人)たちはここに狩猟に訪れ、この様な歌を詠んだのであろうと思われます。それはかつてここに住んでいた「機を織る人たち」(渡来人達)を織姫(天棚機比売大神)に投影し、そして目の前に流れている美しい川を「天の川」と名付け、その天の川を挟んだ対岸に牽牛(彦星)という牛飼いの男が住んでいてる設定にし、それを中国に伝わっている物語(七夕伝説)になぞらえて、歌を詠む「材料」「道具」にしていたのではないだろうか?

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織姫

引用したブログで機織神社の祭神<織姫>は

「もともと機織を業とした帰化漢民族の祖先をまつった宮ですが」と前置きしておいて「祭神をたなばた神としてしまいました」というのは、いわば

平安貴族たちが歌を読むための道具として作られた「伝説」によって、勝手に祭神として祭り上げられたのではないかと思われます。

あ、そんな事を考えていたら機織り機の向こうに織姫さまが、、、
なんだかゆるキャラの様な感じですが、、、まぁえぇか(笑)
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ザラエノヒトヨタケ

ザラエノヒトヨタケ(粗柄一夜茸) ヒトヨタケ科、ヒトヨタケ属

この透明感のある笠の形はこのキノコ独特であり、独創的なイメージすらありますね。
山道を歩いていていると道の脇にそっと出ているのですが、この透明感もあってなかなか目につかないかもしれません。

『似たキノコ』

・キツネノハナガサ
ザラエノヒトヨタケに黄色い粉をまぶしたようなキノコ
http://www.s-kinoko.com/kininaru-html/kinoko-html-ka-ko/kitunenohanagasa.html

・ヒダヒトヨタケモドキ
ザラエノヒトヨタケに白い粉をまぶしたようなキノコ
http://dokitto.com/database/D-hidahitoyotakemodoki.htm

・ミヤマザラミノヒトヨタケ 
よりヒトヨタケの質感にちかいのであるが、傘の開き方がザラエノヒトヨタケっぽい感じ
http://www.hedara.com/kinoko/miyamazaraminohitoyotake/miyamazaraminohitoyotake.htm


カンゾウタケ

カンゾウタケ(肝臓茸)ハラタケ目カンゾウタケ科カンゾウタケ属に属する一属一科一種のキノコ(Wikipedia)。

時期は6月12日。

まだあるかなぁ、、と思って探していたら出ておりました。
なかなかフレッシュなカンゾウタケなので出始めて1~2週間というとこでしょうか?
まだまだ出るんだなぁ、と学習しました。

最近カンゾウタケを食べて「美味しい」と言う人が何人か出てきました。
「まさかぁ、、」と思うのですが「マジ」だったりします。
もしかしてフレッシュな内は美味しかったり、また、料理方法によって美味しかったりするのかな、、、、

しかしさすがに餃子に入れるのはやめとこう、、それは元も子もなくなるおそれがあるわさ。


ラーメン「亭亭」 西田辺

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西田辺駅近くに昔からあるラーメン屋「亭亭」。
昭和町に住んでいた頃は「あそこにラーメン屋があるな」程度に見ていたのだが、西田辺に越してきてその存在はより近くになったのがだが今まで来ることは無かった。

特に魅力が無かったわけではないが、単に縁がなかった、ということだろう。
しかし今回初めて行って今まで食べに来てなかったことを激しく後悔した。
昭和町・西田辺近辺にラーメン屋は多い。激戦区と言っても過言ではないだろう。そんな激戦区の中を長年店を続けていけてる、というだけで固定客がたくさんいるのは間違いない。

上の写真が入り口である。
店構えは中々古風な木造の外装で、中に入ってもそのポリシーは変わらず、太い木の柱などがあって「ラーメン屋」というより最近のカフェという感じはあるが、いやそこはラーメン屋である、それ以外のところは無骨そのものであった(ごめんちゃい w)。

店の近くに自転車を止めるとすでにプーンとした豚骨を煮ている匂いが漂ってくる。人によってはこの匂いが嫌いという人もいるかも知れないが僕自身は美味いラーメンの予兆という感じで決して嫌いではない(大好きでも無いが w)。

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メニューを見るとトップに「亭亭ラーメン」とある。
もちろんこのメニューがこの店の「ウリ」なのだろう。迷わず「亭亭ラーメン」をお願いする。

5分ほど待ったら「はい、お待ち!」とラーメンがやってきた。

もちろん豚骨ラーメンである。

ぱっと見た目、大阪でのオーソドックスな豚骨ラーメンである(博多の豚骨ラーメンとは違うのよね)。

まずは麺をすくい上げて一口啜る。

濃い目でしっかり味のついたスープはとってもまろやかでかなり美味しい。
麺はちょっと太目でストレートな卵麺かな?これまたスープとの相性はバッチリで、このスープの濃さならこれぐらい太い麺がピッタリだと思いました。

そして特筆すべきはこのチャーシューです!!
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分厚く切られたチャーシューが3切れほど載っていましたが、最も僕が好きなタイプで、脂身の部分が多く、トロトロでグチュグチュ(笑)。でも身の部分はしっかりしていて味もちゃんと付いているんですよね。
たぶんチャーシュー麺とかにしたらしつこいかも知れませんが、普通のラーメンなら僕にとっては最強のチャーシューだと思いますね!!

この店はまた嫁を連れて行きたい店ですね!
今回は麺の撮影を失敗してしまったのですが(前もやん w)、そのリベンジにまた行きたいと思います。