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スギタケモドキ

スギタケモドキ

雨で結局富士山への登頂は叶わなかったけど、この姿を見た瞬間すべての不満や、ストレスが解放される気持ちになったよ。

なんて可愛い姿をしているのか、、日本語にある「可憐」という言葉はこのキノコのためにあるんじゃないか、、、などと思ってしまうぐらい愛おしい姿をしておりましたよ。

これの横広バージョンはカレンダー確定ね♪

『似てるキノコ』

・スギタケ
ヌメリがないことが特徴
http://www.kinoco-zukan.net/sugitake.php

・ヌメリスギタケ
全体に滑(ぬめ)っている
http://www.kinoco-zukan.net/numerisugitake.php

・ヌメリスギタケモドキ
ツカの部分に滑(ぬめ)りがない
http://www.kinoco-zukan.net/numerisugitakemodoki.php


富士キノコ

不明菌

富士山のキノコ達はずるい。

きっと神戸のキノコや、生駒のキノコ達は口を揃えてこう言うに違いない。

この山は火山岩や火山灰に覆われているはずなのだが、何十年、何百年の間にそこに植物の種が根付き、根を伸ばし、そして大きな樹へと成長していった。樹は水をたくわえ、土を湿らし、コケが地面全体を覆うようになっていく。

そんなコケの絨毯を縫うようにして散策路が刻まれている。高鉢の駐車場から「御殿庭」へと続く道。それはまるで楽園に導かれる夢のような道なのであるが、ガラン沢を越えてしばらくすると、それまでは平坦な道だったのがいきなり「登山道」となる。いきおいキノコを探す気持ちが薄れていく。坂道を見ると「登山モード」にスイッチが切り替わるのだ。

しかし雨はおとなしくなるどころか、その勢いを増しているようにも思える。木々の間に身を置くと分からなかったその「勢い」が、少し開けた尾根道に出た瞬間、ものすごい勢いで僕の身に襲いかかってきた。傘は飛ばされ、道を歩くのにも抵抗力がかかり、下へ、下へと押し戻される、、、

そこで気づいた。

あれ、今日は登山はしないハズだったぞ、、、、

そう思い直して、「御殿庭」への到達は断念して踵を返した。
帰り道は行き道と違った景色が広がっていた。
登っているときには気づかなかったキノコ達の姿が、木の陰に隠れていたり、岩の向こうにひっそり出ていたりする。

それらの新しい「発見」もまた楽しいのだ。

山は歩くだけじゃない、見たり、探したりするのもとっても楽しいものだと思い知る。しかもこの楽園の様な風景。乾燥と戦っている我が関西のキノコ達に教えてあげたらきっと嫉妬するに違いない。


「地図さんぽ」(明治20年台 枚方駅~枚方公園)

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江戸時代、枚方は「枚方宿」と言って京都から大阪に向かう途中の宿場町であった。この地図で見るとオレンジで囲んであるエリアが枚方宿、もしくは枚方宿だった所だろうとわかる。僕らの子供の頃はこんな感じでズラッと小売の商店が並んでおり、昔の面影が残っていたものである。

この地図の当時では枚方村を中心にして三ツ矢村、岡新町村、田宮村、伊加賀村など現在では町名として残っている名前が「村」として存在していた。

その村の中心はいずれも平野部のところであり、等高線が示す通り、枚方宿の南側にはまるでリアス式海岸の様な地形が刻まれており複雑な地形だったことが伺える。

また現在の枚方市駅は枚方宿の中心に作られており、そこから枚方宿の南側に添って線路が引かれていて伊加賀村の少し北側あたりに枚方公園駅が作られている。たぶんその辺りの田んぼを潰して枚方パークが作られたんでしょうね~

さて、ここで注目したのは枚方中学の位置です。このマークが良くわからないのですが、もしかしてここは池じゃなかったのかと思われます。つまり池を潰して枚方中学を作ったのではないかと。
それとこの間、高低差学会で歩いた時に、枚方中学校横の階段を降りたところのスリバチ地形がありましたが、その地形がちょうどこの地図に載っていますね!!

この地図で鷹塚山遺跡の位置をここにしましたが、確か尾根道のところに有ったはずですがちょいと曖昧です(地図の見方を知らないというわな w)


枚方市香里ケ丘の部分地図(明治時代20年台)

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明治時代の香里ヶ丘の地図のコピーをもらうことが出来たので、現在の地図(グーグルマップ)と比較してポイントとなるところをプロットしてみた。

大きくは地形が変わっていなかったのにちょっと感動!!しかし当然昔は山(丘)だったところに団地を作っていったので、この地図上にはない「道」が沢山走っている。それを地名や、平地の部分を重ね合わせながらその未来の道を推測していくのもなかなか楽しい作業であった。

地名も「山之上」「茄子作」「釈尊寺」「村野」「郡津」などの地名はそのまま残っているのがなんだか嬉しいね。

あと、藤田川や以楽園の池などもいまのままの形がそのまま残っていますよ。

ちっちゃいけど拡大して見てください。


七夕伝説を巡る旅(その3)

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さてこの交通標識をご存知だろうか・・・?

知らん人はまったく知らないと思いますが、僕と同じ高校に通っていて、しかも枚方方面からの自転車通学をしていた人なら必ず知っている標識である(かなり限定されますな w)。

そう、この標識は枚方の茄子作とか高田方面から交野市に入った瞬間にほぼほぼ目にする標識でありまして、この標識のところで右折して交野高校へと僕は毎朝通っていたのでした。

で、この標識に書いてある文字はというと?

「逢合橋西」

とあります。
さて逢合橋とはどんな橋なのでしょうか?

前回の「七夕伝説を巡る旅(その2)」はこちらからどうぞ。
七夕伝説を巡る旅(その2)

逢合橋とは

逢合橋というのは、結ばれたにも関わらず引き離されて別れ別れに住まざるを得なくなった牽牛(彦星)と織姫が、唯一七夕の日だけに天野川にかかるこの逢合橋で逢瀬を楽しんだ、とされる橋なのです。

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この橋のたもとにはこの様な歌もありました。

彦星(ひこほし)と
織姫(たなばたつめ)と
今宵逢ふ
天の川門(と)に
波立つなゆめ

万葉集(作者未詳)

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彦星と 織姫とが 今夜逢う 天の川の渡り瀬に 波よ決して立つな

古代平安の貴族たちが今のこの天の川を目にしながらこんな歌を詠んでいたのだと思うと、同じこの地に立って天の川を眺めいたら何だか古代に紛れ込んだ気分になるのが不思議ですね。

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かささぎ橋

天野川を遡って行って限りなく枚方市駅の方に行ったところに「かささぎ橋」という橋があります。

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カササギというのは鳥の名前で、これも七夕伝説のお話の中でこんな風に現れてきます。

牽牛は七月七日が来ると、銀河を渡って織女に逢いに来ました。その日が雨のため、水が増して銀河を渡れないと、鵲(かささぎ)が群れ集まって翼を広げ、橋となって渡してくれました。
http://www.kk-kikuchi.com/tanabata-roman/tanabata-roman.htm

逢合橋とかささぎ橋、かたや交野市内にあり、もう一つは枚方市内にあり、両方共に天野川にかかる橋なのです。

う~~む、何とも複雑な心境だ~(笑)
これはつまりは枚方市と交野市の「七夕合戦」なのですよね、きっと (@_@)

まぁ僕はどちらも大好きな市なので、、、じゃあこうしましょう。

七夕伝説で彦星と織姫が逢う場所は、晴れの日なら逢合橋、雨の日ならかささぎ橋で、、ってことで!

桑ヶ谷

さて締めくくりと言ってはおかしいのですが、、、

この枚方、交野という一帯は古墳時代、飛鳥・奈良時代、平安時代と時代時代の重要なポジションを占めていました。

それは今でこそ海からは遠く、決して交通が便利だとは言えないこの地域なのだが、その当時、枚方丘陵と呼ばれるこの地域は河内湖という湖(海)の畔なのでした。
つまり大阪市内の上町台地を除いた北側は守口をはじめ、門真、寝屋川までもが海の底かもしくは湿地帯であったのです。

「参考:大阪の古代地図」知ってるつもり?! 縄文時代の大阪

すると枚方の香里ヶ丘という地域はどんな地域だったのだろうか?

枚方丘陵っていうのは、まさしくその丘陵は「香里ケ丘」を指しているのだと僕は思っている。
香里園、光善寺、枚方公園、それぞれの駅から「丘」に向かう坂道を上がっていくと、すべての道は香里ヶ丘に通じる。
唯一枚方市駅だけは「坂道」ではなく、平坦な道となっている。

その理由はおそらく谷道に道路を作ったからだと思われる。
それが証拠に、かなり小さいけど藤田川という川が道に沿って流れ、「桑ヶ谷」という場所が存在するのだ。

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「桑ヶ谷」は今でこそ「谷」らしくないけど、よく見ると片側に「桑ヶ谷公園」という山があり、もう片側には桜公園へと続く坂道がある。これは立派な「谷」なのだ。

そして「桑」の方にも注目するとこの桑ヶ谷から南へ200mぐらい行ったところに桑の木が3本あった、ということが確認されている(うち一本は伐採された)。

そう、恐らくこの辺りは交野の倉治を本拠地とした機織り業の人たちに、その原料となる絹糸を供給するための一大産地だったのではなかったのだろうか、、、、

七夕伝説を巡る旅は結局ここに戻ってきた感じがする。

今も残る大桑の木
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七夕伝説を巡る旅(その2)

七夕伝説を巡る旅その2は織姫が住んでいた、という機物神社からである。
また、機物神社に限らず、この機物神社がある倉治やその周辺の「交野」という土地はどのような土地であったのか?という所も検証していきたい。

前回の「七夕伝説を巡る旅(その1)」はこちらからどうぞ。
七夕伝説を巡る旅(その1)

機物神社とは?

さてこの機物神社、7月の6、7日は七夕祭りで凄く賑わっているらしい。
というのもこの神社が七夕伝説の一方の主役「織姫」がここに居を構えていた、といわれているからである。

まずはこの写真を見ていただきたい。
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これは織姫の「絵」らしい。
ここに二つの名前が書いてあが、これは機物神社の祭神の名前である。

「天棚機比売大神」(あまの・たなばた)
これは織姫神のことで、天照大神の衣服を織って、天の岩戸から外の世界へ誘い出したという言い伝えがあります。またここより磐船街道をずっと奈良に抜ける途中で「磐船神社」という神社がありここには「天岩戸」(あまのいわど)という巨石があります。そう、天照大神がお隠れになったその岩が<今も>磐船神社に現存するのです。

「栲機千々比売命」(たくはた・ちぢみ)
美しい縮んだ織物の神様のことらしいです。

さてこの二人を祭神とした機物神社とは、、、

もともと機織を業とした帰化漢民族の祖先をまつった宮ですが、平安時代になるとこのあたりは狩りを楽しんだり、詩歌(しいか)を詠じたりする宮人たちの行楽の地となり、陰陽道(おんようどう)なるものが入ってきて、祭神をたなばた神としてしまいました。
http://murata35.chicappa.jp/meisho/hatamono/

気になる表現がありますね、、、

「もともと機織を業とした帰化漢民族の祖先をまつった宮ですが」と前置きしておいて「祭神をたなばた神としてしまいました」とあります。
つまりは

祭神が「帰化漢民族の祖先」から「織姫様」に変わってしまった。

ってことなのですね!
なんとまぁ!!

交野と言う土地

ではこの交野及び倉治周辺の大雑把な歴史を整理してみましょう。

1.古墳時代(物部氏統治時代)

肩野(かたの)物部氏がこの交野一帯と枚方の開拓・経営に携わっており、物部の一族やそれに従う部族などが多くこの辺りを治めていたと考えられます。また、交野市森ではこの時代の古墳が発見されており、物部氏の一族のお墓ではないか、といわれております。
しかし物部氏が蘇我氏との崇仏・排仏論争に敗れ(587年)、物部の本宗家が滅びると共に、肩野(かたの)物部氏もその影響でこの辺りの勢力を一掃されることになったようです。

『参考』
507年に第26代継体天皇が即位した時に今の樟葉に「樟葉宮」という都を置いたとされています。
つまりこの枚方~交野という土地は交通の要所であり、都を置くに適した土地なのですね。

2.飛鳥時代~奈良時代(渡来民時代)

飛鳥時代になると百済との交流が盛んになり、当然人や文化の交流も盛んに行われるようになります。そして物部氏の出て行ったこの土地は朝鮮半島からの渡来民に分け与えられることになります。また彼らの多くが機織などの技術を持ってやってきたため、この辺り(特に倉治周辺)は機織の一大産地となったのではないかと思われます。

この交野で織られた着物は磐船街道を通ってその頃都であった奈良に運ばれて行ったことでしょう。

3.平安時代(狩猟場時代)

平安時代になると交野という土地は平安時代は貴族などが「遊猟」のために訪れる土地だったらしい。
確か枚方の禁野なども同じように「天皇の狩場」だったので、この枚方~交野一帯は今で言う天皇や貴族たちの別荘地みたいなものであった、と想像できます。

とすると機織業を正業とする渡来民たちはいったいどこに行ったのでしょう?
もうここでは機織はされなくなったのでしょうか?

都は京都に移されています。
京都からこの辺りまではさほど遠くはないにしろ、都の近くの土地を求めてまた移住していった(または移住させられた)ということがあってもおかしくありませんね。

七夕伝説

七夕伝説はいつから始まったのか?
そんな事を考えてみた。

まずはこの石碑を見てください。
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この石碑には紀貫之の拾遺和歌集に収められている歌が刻んである。

ひととせに
ひとよとおもへと
たなはたの
あひ見む秋の
限なきかな

これは七夕伝説をことを詠んだ歌であります。

拾遺和歌集とは1006年(平安中期)に編纂された和歌集と言われています。

つまりこの時期には七夕伝説は存在した、と言うことになりますね。

僕の推測では・・・

七夕伝説とは、織姫、牽牛、そして天の川の物語。
少なくともこの内2つの要素(織姫、天の川)はこの交野の地に存在する。
ではこの土地は七夕伝説の土地だった、ってことにしてしまおう。

と貴族たちは考えた。

大勢の貴族(宮廷人)たちはここに狩猟に訪れ、この様な歌を詠んだのであろうと思われます。それはかつてここに住んでいた「機を織る人たち」(渡来人達)を織姫(天棚機比売大神)に投影し、そして目の前に流れている美しい川を「天の川」と名付け、その天の川を挟んだ対岸に牽牛(彦星)という牛飼いの男が住んでいてる設定にし、それを中国に伝わっている物語(七夕伝説)になぞらえて、歌を詠む「材料」「道具」にしていたのではないだろうか?

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織姫

引用したブログで機織神社の祭神<織姫>は

「もともと機織を業とした帰化漢民族の祖先をまつった宮ですが」と前置きしておいて「祭神をたなばた神としてしまいました」というのは、いわば

平安貴族たちが歌を読むための道具として作られた「伝説」によって、勝手に祭神として祭り上げられたのではないかと思われます。

あ、そんな事を考えていたら機織り機の向こうに織姫さまが、、、
なんだかゆるキャラの様な感じですが、、、まぁえぇか(笑)
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七夕伝説を巡る旅(その1)

枚方市と交野市を分断する川の名前を「天野川」という。
僕達も子供の頃はこの天野川やその支流の川で遊んでいた思い出がある。またこの天野川の上流の方へ行くとまだホタルを観ることができる、そんな美しいところが残っている川でもある。
そんな天野川とその周辺には古くから「七夕伝説」が残されており、万葉集や 古今集などにも多く読まれている事が知られています。
また現在でもその痕跡(遺跡)はいくつか残されていたり、新しく記念碑が作られたりしています。
今回はそんな当時を偲ぶリトルツアーに出掛けて来ましたので写真とともに紹介したいと思います。

まずは忘れている人のために七夕伝説を簡単に説明します。

七夕の発祥は中国と言われており、天の川の西に住む織物が得意な織女と、東に住む牛飼いの牽牛という夫婦の話が元となっています。
織女の結婚相手を探していた天帝(星空を支配する神)が、働き者の牽牛のことを知り「娘の織女と結婚してくれないか?」と頼みました。牽牛は恐縮しながらもその話を引き受け、2人は夫婦となりました。
しかし、2人は結婚すると真面目に働くどころか天の川のほとりでおしゃべりばかりをしています。天帝が「仕事をしないのか?」と尋ねると、「明日からやります」と答えるばかりで一向に働く気配がありません。
これに業を煮やした天帝は、牽牛を元いた天の川の西に戻し、2人を離ればなれにしてしまいました。
牽牛と会えなくなった織女は毎日を泣いて暮らしました。そして牽牛も寂しさにあまり家に閉じこもってしまい牛の世話ができなくなってしまいました。
それを見た天帝は「2人が以前のようにきちんと働いてくれるなら、年に一度だけ会うのを許そう」と言い、それを聞いた2人は前よりも増して一生懸命働くようになりました。
こうして、一年にたった一度だけ会える日の7月7日は、織女と牽牛にとって待ち焦がれた日となったのです。

http://sk-imedia.com/tanabatadensetsu-7881.html

ではまず「牽牛」が居たという観音山に向かいます。

枚方市駅から香里団地方面に行くバスに乗る。
いろいろなコースがあるのだが、高田の方へ行くバスに乗らないかぎり必ず通る新香里というバス停で降りる(わかり安いからね)。
そこから北に向かってしばらく坂を登ると「観音山」という<山>がある。
そんな高い山ではない、山登りから言わせると小高い丘というイメージに近い。

中山観音寺跡

そこには奈良時代から平安初期にかけて「中山観音寺」というお寺があったようで、どうも火災で消失したらしく、その遺跡がこの当たりから発掘されたらしい。
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牽牛石

これは牽牛石ですね。
牽牛(彦星)はもともと牛飼いですから、この石はつまり「牛」なのでしょうね。
よく見れば牛に見えてきました(笑)
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この石はかなり古くから「牽牛が居たところの象徴」として古くからあったのでしょう。

山上憶良の歌碑

ここに万葉集の碑がありました。
山上憶良の歌です。

牽牛(ひこぼし)の
妻迎え船 こぎ出(づ)らし
天の河原に 霧の立てるは
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<訳>
彦星の妻を迎える船が漕ぎ出たらしい
舟しぶきで
天の川の川原に霧が立つのを見ると

なかなか悲しい歌ですね。

牽牛の像

そして2007年の七夕に建立された牽牛の像です。
全国七夕サミットというのがあって、それを記念して建てられたそうな。。
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実はこの観音山、意外にも「牽牛(彦星)様が居たところ」だとは知られてはいません。
僕も子供の頃にそんな話は聞いたかもしれませんが、たぶんすっかりと忘れておりました。

もちろん観音山には何度か来たことがありますが、それは「虫探し」に来ただけであって(しかもあまり居なかった)、子どもとしてそれほど興味が湧く山でもありませんでした。
当時はこんな像や碑なども無かったしね、、、でもたぶん牽牛石だけはあったと思う。

その2につづく、、、


東山から見た須磨アルプス

東山から見た須磨アルプス

IさんがFacebookでここからの景色を撮っていたので場所を教えてもらって僕もトライしてみた。
ただしカメラは娘のLUMIX DMC-TZ70(35mm 判換算: 24-720mm)。
なので色がちょっと・・・(苦笑)
でも結構広角で撮れるので、一眼に35mmレンズつけて持って歩くより便利なことは確かだな。

登山日:4月23日


伏見稲荷(勇猛なキツネ)

伏見稲荷

裏道の参道を降りていく。
「裏」であるにも関わらず、多くの神様がそこかしこに祀ってある。
また人の墓なのだろうか、家族でお参りに来る人たちの姿もここでは見ることができる。
ふとこの苔むしたキツネの像が目に入った。
顔の下半分が完全に苔に覆われていて、まるでヒゲを生やしたかのように映る。
でもその目は険しく、キッと向こうを見つめたまま動かない。
ふと、これはオオカミではないのか、、、という荒唐無稽な思いに駆られる。
そんな勇猛な目をしているのだ。


伊吹山の威容

伊吹山5

伊吹山に初めて登った。山の形はどこが頂上なんだろうか、と思ってしまうぐらいぐらい山の上部が吹っ飛んだような形をしている。もしかして伊吹山というのは昔火山だったところで、噴火で山の上部が変形したのではないか、、と思いつつ。

そして信仰の山でもある伊吹山は伊吹大明神と称せられ、古事記では「牛のような大きな白猪」、日本書紀では「大蛇」に例えられた。また古事記ではヤマトタケルがこの伊吹大明神と戦って敗れる、という物語がある。とまれ伊吹山というのはその威容な姿をもさることながら、昔から崇められてきた山であることには間違いない。

そして三合目を過ぎ、五合目辺りからその姿が僕らに迫ってくるときに神々しいまでの威容を感じずにはいられなくなり、今からこの山に登るのだ、と思うと身震いせずにはいられなくなるのだ。

しかし、この山の北側をご存知だろうか?

伊吹山は火山だったので元々が海の底にあったらしい。それ故、この山からは沢山の化石などが出てくるとともに、山自体が石灰質の地層が堆積して形成されているので、それがセメントの材料になるのだそうな。

なので、、、北側斜面はその材料の採掘場があり、山が山の体を無してないほどに削られているのである。
それは、まさに異様な姿としか言いようがない、美的にも、そして信仰的にも。