さてこの交通標識をご存知だろうか・・・?
知らん人はまったく知らないと思いますが、僕と同じ高校に通っていて、しかも枚方方面からの自転車通学をしていた人なら必ず知っている標識である(かなり限定されますな w)。
そう、この標識は枚方の茄子作とか高田方面から交野市に入った瞬間にほぼほぼ目にする標識でありまして、この標識のところで右折して交野高校へと僕は毎朝通っていたのでした。
で、この標識に書いてある文字はというと?
「逢合橋西」
とあります。
さて逢合橋とはどんな橋なのでしょうか?
前回の「七夕伝説を巡る旅(その2)」はこちらからどうぞ。
七夕伝説を巡る旅(その2)
逢合橋とは
逢合橋というのは、結ばれたにも関わらず引き離されて別れ別れに住まざるを得なくなった牽牛(彦星)と織姫が、唯一七夕の日だけに天野川にかかるこの逢合橋で逢瀬を楽しんだ、とされる橋なのです。
この橋のたもとにはこの様な歌もありました。
彦星(ひこほし)と
織姫(たなばたつめ)と
今宵逢ふ
天の川門(と)に
波立つなゆめ
万葉集(作者未詳)
彦星と 織姫とが 今夜逢う 天の川の渡り瀬に 波よ決して立つな
古代平安の貴族たちが今のこの天の川を目にしながらこんな歌を詠んでいたのだと思うと、同じこの地に立って天の川を眺めいたら何だか古代に紛れ込んだ気分になるのが不思議ですね。
かささぎ橋
天野川を遡って行って限りなく枚方市駅の方に行ったところに「かささぎ橋」という橋があります。
カササギというのは鳥の名前で、これも七夕伝説のお話の中でこんな風に現れてきます。
牽牛は七月七日が来ると、銀河を渡って織女に逢いに来ました。その日が雨のため、水が増して銀河を渡れないと、鵲(かささぎ)が群れ集まって翼を広げ、橋となって渡してくれました。
http://www.kk-kikuchi.com/tanabata-roman/tanabata-roman.htm
逢合橋とかささぎ橋、かたや交野市内にあり、もう一つは枚方市内にあり、両方共に天野川にかかる橋なのです。
う~~む、何とも複雑な心境だ~(笑)
これはつまりは枚方市と交野市の「七夕合戦」なのですよね、きっと (@_@)
まぁ僕はどちらも大好きな市なので、、、じゃあこうしましょう。
七夕伝説で彦星と織姫が逢う場所は、晴れの日なら逢合橋、雨の日ならかささぎ橋で、、ってことで!
桑ヶ谷
さて締めくくりと言ってはおかしいのですが、、、
この枚方、交野という一帯は古墳時代、飛鳥・奈良時代、平安時代と時代時代の重要なポジションを占めていました。
それは今でこそ海からは遠く、決して交通が便利だとは言えないこの地域なのだが、その当時、枚方丘陵と呼ばれるこの地域は河内湖という湖(海)の畔なのでした。
つまり大阪市内の上町台地を除いた北側は守口をはじめ、門真、寝屋川までもが海の底かもしくは湿地帯であったのです。
「参考:大阪の古代地図」知ってるつもり?! 縄文時代の大阪
すると枚方の香里ヶ丘という地域はどんな地域だったのだろうか?
枚方丘陵っていうのは、まさしくその丘陵は「香里ケ丘」を指しているのだと僕は思っている。
香里園、光善寺、枚方公園、それぞれの駅から「丘」に向かう坂道を上がっていくと、すべての道は香里ヶ丘に通じる。
唯一枚方市駅だけは「坂道」ではなく、平坦な道となっている。
その理由はおそらく谷道に道路を作ったからだと思われる。
それが証拠に、かなり小さいけど藤田川という川が道に沿って流れ、「桑ヶ谷」という場所が存在するのだ。
「桑ヶ谷」は今でこそ「谷」らしくないけど、よく見ると片側に「桑ヶ谷公園」という山があり、もう片側には桜公園へと続く坂道がある。これは立派な「谷」なのだ。
そして「桑」の方にも注目するとこの桑ヶ谷から南へ200mぐらい行ったところに桑の木が3本あった、ということが確認されている(うち一本は伐採された)。
そう、恐らくこの辺りは交野の倉治を本拠地とした機織り業の人たちに、その原料となる絹糸を供給するための一大産地だったのではなかったのだろうか、、、、
七夕伝説を巡る旅は結局ここに戻ってきた感じがする。
今も残る大桑の木