七夕伝説を巡る旅その2は織姫が住んでいた、という機物神社からである。
また、機物神社に限らず、この機物神社がある倉治やその周辺の「交野」という土地はどのような土地であったのか?という所も検証していきたい。
前回の「七夕伝説を巡る旅(その1)」はこちらからどうぞ。
七夕伝説を巡る旅(その1)
機物神社とは?
さてこの機物神社、7月の6、7日は七夕祭りで凄く賑わっているらしい。
というのもこの神社が七夕伝説の一方の主役「織姫」がここに居を構えていた、といわれているからである。
これは織姫の「絵」らしい。
ここに二つの名前が書いてあが、これは機物神社の祭神の名前である。
「天棚機比売大神」(あまの・たなばた)
これは織姫神のことで、天照大神の衣服を織って、天の岩戸から外の世界へ誘い出したという言い伝えがあります。またここより磐船街道をずっと奈良に抜ける途中で「磐船神社」という神社がありここには「天岩戸」(あまのいわど)という巨石があります。そう、天照大神がお隠れになったその岩が<今も>磐船神社に現存するのです。
「栲機千々比売命」(たくはた・ちぢみ)
美しい縮んだ織物の神様のことらしいです。
さてこの二人を祭神とした機物神社とは、、、
もともと機織を業とした帰化漢民族の祖先をまつった宮ですが、平安時代になるとこのあたりは狩りを楽しんだり、詩歌(しいか)を詠じたりする宮人たちの行楽の地となり、陰陽道(おんようどう)なるものが入ってきて、祭神をたなばた神としてしまいました。
http://murata35.chicappa.jp/meisho/hatamono/
気になる表現がありますね、、、
「もともと機織を業とした帰化漢民族の祖先をまつった宮ですが」と前置きしておいて「祭神をたなばた神としてしまいました」とあります。
つまりは
祭神が「帰化漢民族の祖先」から「織姫様」に変わってしまった。
ってことなのですね!
なんとまぁ!!
交野と言う土地
ではこの交野及び倉治周辺の大雑把な歴史を整理してみましょう。
1.古墳時代(物部氏統治時代)
肩野(かたの)物部氏がこの交野一帯と枚方の開拓・経営に携わっており、物部の一族やそれに従う部族などが多くこの辺りを治めていたと考えられます。また、交野市森ではこの時代の古墳が発見されており、物部氏の一族のお墓ではないか、といわれております。
しかし物部氏が蘇我氏との崇仏・排仏論争に敗れ(587年)、物部の本宗家が滅びると共に、肩野(かたの)物部氏もその影響でこの辺りの勢力を一掃されることになったようです。
『参考』
507年に第26代継体天皇が即位した時に今の樟葉に「樟葉宮」という都を置いたとされています。
つまりこの枚方~交野という土地は交通の要所であり、都を置くに適した土地なのですね。
2.飛鳥時代~奈良時代(渡来民時代)
飛鳥時代になると百済との交流が盛んになり、当然人や文化の交流も盛んに行われるようになります。そして物部氏の出て行ったこの土地は朝鮮半島からの渡来民に分け与えられることになります。また彼らの多くが機織などの技術を持ってやってきたため、この辺り(特に倉治周辺)は機織の一大産地となったのではないかと思われます。
この交野で織られた着物は磐船街道を通ってその頃都であった奈良に運ばれて行ったことでしょう。
3.平安時代(狩猟場時代)
平安時代になると交野という土地は平安時代は貴族などが「遊猟」のために訪れる土地だったらしい。
確か枚方の禁野なども同じように「天皇の狩場」だったので、この枚方~交野一帯は今で言う天皇や貴族たちの別荘地みたいなものであった、と想像できます。
とすると機織業を正業とする渡来民たちはいったいどこに行ったのでしょう?
もうここでは機織はされなくなったのでしょうか?
都は京都に移されています。
京都からこの辺りまではさほど遠くはないにしろ、都の近くの土地を求めてまた移住していった(または移住させられた)ということがあってもおかしくありませんね。
七夕伝説
七夕伝説はいつから始まったのか?
そんな事を考えてみた。
この石碑には紀貫之の拾遺和歌集に収められている歌が刻んである。
ひととせに
ひとよとおもへと
たなはたの
あひ見む秋の
限なきかな
これは七夕伝説をことを詠んだ歌であります。
拾遺和歌集とは1006年(平安中期)に編纂された和歌集と言われています。
つまりこの時期には七夕伝説は存在した、と言うことになりますね。
僕の推測では・・・
七夕伝説とは、織姫、牽牛、そして天の川の物語。
少なくともこの内2つの要素(織姫、天の川)はこの交野の地に存在する。
ではこの土地は七夕伝説の土地だった、ってことにしてしまおう。
と貴族たちは考えた。
大勢の貴族(宮廷人)たちはここに狩猟に訪れ、この様な歌を詠んだのであろうと思われます。それはかつてここに住んでいた「機を織る人たち」(渡来人達)を織姫(天棚機比売大神)に投影し、そして目の前に流れている美しい川を「天の川」と名付け、その天の川を挟んだ対岸に牽牛(彦星)という牛飼いの男が住んでいてる設定にし、それを中国に伝わっている物語(七夕伝説)になぞらえて、歌を詠む「材料」「道具」にしていたのではないだろうか?
織姫
引用したブログで機織神社の祭神<織姫>は
「もともと機織を業とした帰化漢民族の祖先をまつった宮ですが」と前置きしておいて「祭神をたなばた神としてしまいました」というのは、いわば
平安貴族たちが歌を読むための道具として作られた「伝説」によって、勝手に祭神として祭り上げられたのではないかと思われます。