松島や (3)

五大堂

五大堂は不思議な場所にある。

そこへ行くには2つの橋を渡らねばならない。橋の名前は「透橋」。縁結びの橋、と言われているらしい。橋をわたっている時はその下に海がある、という事を意識することはまず無いであろう。橋は川にかかっているもの、という先入観があるからである。しかしここではその先入観は通用しない。その橋を使って「渡る」のは隣の島へ、であった。上の写真で見るとよくわかるが、陸地にと陸地の間には確かに隙間が空いており水もちゃんと流れているので、あくまでもそれは島であった。

五大堂

その2つの橋を渡ったところに五大堂はあり、そこにも乗船前か、または乗船後の人たちが少なからず訪れていた。

五大堂の説明に関しては以下のものを引用しておく

松島のシンボル・五大堂は、大同2年(807)坂上田村麻呂が東征のとき、毘沙門堂を建立し、天長5年(828)慈覚大師円仁が延福寺(現在の瑞巌寺)を開基の際、「大聖不動明王」を中心に、「東方降三世」、「西方大威徳」、 「南方軍荼利」、「北方金剛夜叉」の五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになりました。

http://www.matsushima-kanko.com/miru/detail.php?id=141

坂上田村麻呂と言えば蝦夷の征伐(征夷大将軍)として教えられた歴史上の人物である。と言うことはこの辺り(宮城県)というのはその前線地域だったところなのでしょうね。蝦夷というのは今のアイヌ民族の祖先と言われている人々。古来からここ東北以北を居住地としていたのだが、渡来人達の侵略により北へ北へと追いつめられていった人たち。

そんな過去へ思いを馳せる、、東北の地、そして人々にはそんな悲劇の血が脈々と流れているのかもしれない、、と。

五大堂

五大堂を後にした僕は松島について少し考えてみた。

ここで一番良く目にした「言葉」は「芭蕉」であった。多かれ少なかれここ松島は芭蕉が訪れたことが、そして奥の細道にこの松島のことが記述されていることが、根強い松島人気の一つとなっているのは確かである。
ただ松島のことについて「何て」書いてあるのかは知る人は少ないのではないか、そして奥の細道には松島のことを詠んだ句が一つもないという事も。

有名な「松島や ああ松島や 松島や」という句は芭蕉のものではない。

だいたいこの句には季語というものがない。なので俳句でさえないのだ。何故この句が「芭蕉の句」だとして広まったのかはたぶん「松島>奥の細道>松尾芭蕉」という連想の賜であろう。

ただこの句が「芭蕉の句」であるという伝聞が広まって、この句を口ずさみながら、そして情景を目に浮かべながらこの松島を目指す人は多いだろう。だとすればこの伝聞は間違ってはいるけども地元の人にとってはとてもありがたい一句ではないかと、、そう思うのであります。

「松島や ああ松島や 松島や」

僕も確かにこの句を頭のなかでリフレインさせながらこの駅を降り立った。

松島

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