大阪高低差学会に参加した(中編)

DSC_1337-1

フェンスの前に立って多くの人が向こうの景色を見たり、下を覗いたり、写真を撮っているのが分かるだろうか?
これは何をやっているのかというと、台地状になっている土地とその下に位置している住宅街、それを分断している崖の狭間に立って、その高低差を楽しんでいるのである。

わかるかな?これが「楽しい」のが、、、

分かる人にはわかるが、分からない人には100年経ってもわからないだろう(笑)。

この様な地形がどうやって出来たのか?
歴史に詳しい先生に聞いてみると、

「土地が隆起したんだと思います」

とのことでした。
この1kmぐらい先には淀川が流れており、僕はその流れがこの土地を形作るのに何らかの影響を与えているのじゃないか?と考えていたのですが、果たしてどうなんでしょうか?

DSC_1338-1

これは禁野本町遺跡の説明。
この辺り(台地の上周辺)は平安時代には天皇のお狩場であり、また古墳時代の遺跡なども多数発掘されており、つまりはその時代からこの地形は存在していた、ことになります。

また旧陸軍禁野火薬倉庫跡もこの当たりにあった、というのはどういうわけなのでしょうか?
この様な言わば目立つ場所にわざわざ作る必要も無いと思うのですが、、まぁ当時(昭和初期)のこの辺りの状況は良くわかりませんが、もしかしてこの台地の下は既に住宅地となっていて「火薬倉庫」の様な危険なものをそれらの住宅と隔離するためにここに作ったのかもしれませんね、、、

DSC_1348-1

百済寺跡の碑。
百済王神社の階段を登って行くと、神社とその横に広場がある。
そこにこの「百済寺」の碑がある。

百済王神社に百済寺の碑。

同じ百済なんだけど、お寺が無くなって神社が残った、ということなのか、、、?

また、そこから宮之阪の方にまわって禁野橋を通って天の川を渡る。
そして市役所前から岡東町の古い町並みの中に入って行くともう一つの「百済王神社」の鳥居が出てくる。

DSC_1351-1

しかしこの鳥居の先には神社らしき立派なものは無く、言葉は悪いが掘っ立て小屋みたいな建物がそこにあるだけだった。
この2つの関係は何なのだろうか?
これは後の課題としてまた調べることにしよう、、、

さてそこから「枚方の直ぐ近くにもこんな町並みがあるのか?」という様な田舎の建物が並び、そこをぞろぞろ歩いて行くとついに出てくる

「ちょっといい階段」

がこの写真である。
う~ん、写真じゃなかなか「いい具合」が分からないけど、いいんです、ちょっとね(笑)

DSC_1352-1

この「岡東町」や「大垣内町」などは地名は知っているのだが、僕たち香里ヶ丘に住んでいたものとしては詳しく知らないし、通ったこと無いところだっていっぱいあった。

自分が「知っているはず」だったところが実は全く知らなかったという「新たな発見」は逆に僕たちをワクワクさせてくれたのであった。

「大阪高低差学会・2016 春のフィールドワーク・御殿山〜枚方」
http://osakakoteisa.blog.fc2.com/blog-entry-36.html

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です